Tennis Coach

わたしはこう見えても、(財)日本体育協会および(財)日本テニス協会公認のテニスコーチである。 えへん。何を自慢しているんだろう?でも職業コーチではない。

資格をとったのは、1983年の春、故郷宮崎で民間のテニスクラブの臨時コーチのアルバイトをしていたときだ。 その時は、宮崎県からふたり受験したと思う。わたしともう一人は現役の国体選手だった。 結局は、わたし一人だけ合格したのであるが、あれ、やっぱり自慢かな。
当時の試験はおおよそ以下のようなものであった。 3日間の泊り込み形式で、初日と2日目の午前中が、ルールやコーチ理論、応急処置などの医療知識についての座学。 2日目の午後が、筆記試験。 3日目目がオンコートでの実技試験であった。

試験の内容であるが、ルールと応急処置は選択問題か穴埋めであった。 コーチ理論については、課題に対する小論文であったように記憶している。 課題とは、たとえば、気温14度、曇り、コート1面、生徒は40歳台の主婦が中心、ボール二籠。 この条件で、あなたはどのような90分のスクールメニューを考えますか、詳しく書きなさい、といったものだ。

わたしは、アルバイトながら1年間のスクール指導経験があった。 午前中の初級者コース1コマと夕方のジュニア初中級1コマ、それにたまに土日の中上級コースの手伝いを担当していた。 それで、少なくともテニス雑誌は数種類読んでいたし、毎回のスクールの練習方法は自分で考えていたので、 この小論文はお手の物であった。

実技試験は、協会のコーチたちが球出しをし、指定されたドリルを1度だけ行い、それで判断するというものであった。 チャンスは1度しかないので、その点についてはドキドキものであった。 わたしがやったドリルは、以下のようなものであった。

ストローク編は、左右のストロークを2球づつ、計4球打つもの。 ただ打ちなさいと言われただけで、何も指定はなかったが、 一応最初に2球はクロスに、後の2球はストレートに打っておいた。 オールコートドリル編は、まずボールを1個持って、サーブを打ち、スダッシュする、 左右のボレー後、ネットをたたくとロブあがるのでそれをスマッシュする、というものであった。 サーブもボレーもスマッシュも、どれも1度しかチャンスはなく、失敗するとまずいなという 緊張感の中のトライであった。

当時は、技術についてはあまり自信がなく、どうなることやらと思っていたが、 まず無難にこなすことができてほっとした。

たぶん、閉校式のときに合格発表もあったように記憶している。 そのときに、校長から、「今回は技術については少し甘く見ています。 技術は、今後鍛錬すれば、徐々に上達していくし、そう願っています。」 「ただし、理論については辛めに採点しました。コーチとしての資質がある人を合格とするためです。」 「合格した人は、これで安心せず、今後も精進してください。」 という締めの言葉がありました。 うーむ、まさに私のことだな、と思ったのであった。

その後、このライセンスを維持するためには、協会が指定する研修会に毎年出席し、 ある一定のポイントを更新時でに取得しておかなければならない。 それでわたしは毎年、3月前後に東京で行なわれる「コーチャーズ・カンファレンス」に毎回参加している。 この研修会は2日間のもので、1日参加すると3ポイントをもらえることになっている。